ゆこたん

15歳の時から精神科通院、精神科入院を始めました。
いろんな病名がつきましたが、2018年1月の今の地点では、主治医の先生には「統合失調症」と言われています。
発達障害と間違えやすい幻聴・幻覚もなく、陽性症状・陰性症状も顕著ではないそうです。
私の統合失調症の症状は、思考力・学力の低下、意欲の低下、などが主症状らしいです。
治療方針は、作業所に通ったり、地域のサービスを利用して生活していくことだそうです。
だから私は、作業所に頑張って通い、移動支援でお出かけしたり、訪問看護でなんでも話したり、両親と出かけ

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ゆこたんの生い立ち②(多摩総合精神保健福祉センターから入所施設に入所してまで)

🌠 多摩総合精神保健福祉センター デイケア部門 22歳頃と33歳頃の2回とても心が不安定な状態で参加しましたが、受け入れ可能でした。しかし、すぐに問題児の肩書きが付くんですけど。例えば・バスハイクに行くと「まだ帰りたくない〜!」と集合時間に泣き叫ぶ。・体育の時間に、体育館に居ないで、芝生の水まきをして、自分もずぶぬれになる。・あちこちで、おもらしばかりしている。スタッフが後始末をして回る。などやっているうちに、母の呼び出し回数も多くなり、みんなは週4回出席なのに、私だけ週2回しか来させてもらえず、その内、「欠席して下さい」と言われるまでになった。出席するのに、条件をつけられた。「朝の会に出席して、返事をすること」「帰りも同様」「トイレを失敗しないこと」など。とにかく私の課題は、帰りの会にどうしても出られないことで、せかされるとますますダメなのに「出られなかったらお母さん呼んじゃうからね!早く!あーあ。終わっちゃった。じゃあ、約束だから」と、担当に言われ、気付いた時には、外に向かってダッシュしていた。そこは、京王線のとある駅の手前。塀があって、私は泣きながら乗り越え、線路に飛び込んだ。「パオーン!!」というものすごい音がしたのを思い出します。同時に、誰かが上に乗っかって来たのも思い出します。「只今、人身事故がありました。15分程、列車が遅れます」というアナウンスが流れた。私は、引きずられ、多分、電車に乗せられ、駅まで行き、センターの車で迎えに来てもらい、母も来て、その日は家に帰った。次の日、デイケアの責任者と、母と私で、京王電鉄へ謝りに行った。普通は、ものすごいお金を取られるらしいけど、精神の障害を持っていると言うことで「注意して下さい」と言うことになった。カラオケでは、いつも高得点を取り、一目を浴び、音楽の先生からも目をつけられ、先生のピアノのコンクールにも特別招待されたりした。でも、結局合わなかったのかなと思う。私の障害特性に理解が無かったと言うか。🌠 ネットで出会った人デイケアでも、相思相愛になった男の子は居る。でも、その人も精神の病気だし、スタッフから「お付き合いをしたら共倒れをするよ」と言って、反対されていた。2人で、「どこからが友達で、どこからが恋愛なのかね」なんて話を真剣にしていた。そういう純粋な仲だった。でも、ネットで出会った人は違った。そもそも、私は、ネット自体初心者だった。ある掲示板で知り合ったその人と、最初はメールで普通に話していたのだけれど、「家どこらへん?」と聞かれて、真面目に答えると、「近いじゃん。今から行くよ。早くゆこたんに会いたいよ」と言われて、びっくりして、慌てて着替えて、支度して待っていると、本当に車で家の前に来たのです。顔は、写メで見ていたのですぐ分かりました。車に乗り込むなり、ものすごく狂ったようなディープキスをされ、初めてだったので、気持ち悪くて、逃げようとしたんだけど、「さあ、行こう」としてしまった。放心状態で居ると、「カラオケやろう」と言っている。でも、着いた場所は、明らかにカラオケBOXじゃない。ホテルだ。初めての私でも分かる。「ここ、違うよね?」と言うと、「ここにもカラオケの機械あるよ」と強引に駐車場の中に入って行った。どうやって、自分が部屋の中に入って行ったのか覚えていない。気付いたら、目の前に始めて見た男性の性器があり、それをくわえさせられた上、胸をもまれたり、すごく怖い思いをしたのに、私は最終的に犯されたのでした。。。こんなことするんだって知って、「大人になりたくない」って思いました。初体験でした。後で知ったのは、その男性は、薬物中毒で、何度も刑務所を出たり入ったりしていると言うこと。私は、数年後に、婦人科検診で、パピローマウイルスと言われた。精神科の主治医に話したら「不純異性交遊ですよ」と言われた。🌠 飛び降り自殺ずっと、世田谷区の児童精神科に入院して居た時期があった。20代の後半かな。でも、ここでも理解が得られなかった。今では、ここの病院は「自閉症・発達障害の方はお断りします」とはっきり書いてある。たばこが原因で炎が上がった時があった。その時も、たばこなんて私は吸わないのに、放火を真っ先に主治医に疑われた。現場に居たのが私だからだって。他にも居た人居るのに。犯人は、現場に戻って来るもんだとかなんとか言って、犯罪心理学のテストをされた。おもらしや、おねしょをした時も、看護師さんや主治医の先生から「臭いんだよ!」と殴られた。子供たちの病棟で、小さな子供同士、小さなお風呂に5〜6人一緒に入っていた。今思うと、危険だと思う。全て自分でやらなければならなかった。隣りのベッドの8歳の女の子は、寂しくて泣きすぎて、吐いて放っておかれた。そんな色んな怒りを感じて、他にも色んなことに疲れて、先に希望を感じなくて、外泊中、自宅の2階の屋根の上から飛び降りた。生きていた。思わず「痛い・・・痛い・・・」と呻いていると、父と母が、「静かにしなさい!自分でやったんでしょ!恥ずかしいから黙って!自分で家に入って来て!!」と言うので、とても動けそうになかった私は「無理だよ・・・」と言うと、母が父に「どうする?救急車呼ぶ?」と聞くと「そんな恥ずかしいことするな!」と一喝。母がちょっと私の体に触れると「痛い!」と大声を出してしまったので、母は「ずっとそうしてなさい!」と何時間も、寒空の下、放置されていた。心が寒いって本当だなって思った時だった。翌朝、世田谷区の病院の精神科ではなく、整形外科へ自宅の車で連れて行ってもらったのだけど、結果は、腰椎圧迫骨折、両足骨折、右手骨折、歯が数本欠けていた。動けないはずだ。ギブスを作るのに、母と整形の先生で、ぐーっと引き締めるのが痛くて、すぐに整形に入院になったけど、整形では対応出来ないと精神科の個室にお忍び入院になった。この時ばかりは、精神科の看護師さんも優しかった。主治医も交代した。いくらか良くなってから、今、通っている精神科の病院へ来た。表向きは、世田谷区の病院からの紹介となっているけれど、本当は私が整形もある病院と言うことで調べた結果が、幸いにして良かった。🌠 初めの頃の今の病院での私初めての頃は、今でこそあり得ない「開放病棟」に入院したのだが、やはり、とても見切れないとすぐに閉鎖病棟へ移される。平成15年のことでした。この時、元彼と出会ったのです。彼は、看護補助で、移った閉鎖病棟の方に居ました。失禁の後始末、おむつ替え、お風呂の介助、散歩同行、暴れている人の抑え役、色んなことをやっていた。入院するとまず、担当ナースとお約束事を決める。幼稚園児並みのことを。「ベッドより高い所には登りません」「食べ物以外口に入れません」「2語分言えるようにします」「暴れません」など。約束事を、夕方振り返って、ナースに出来た項目にはシールを貼ってもらう。激しく暴れて、病棟内のスタッフでは抑えきれない時、ナースや医者は、胸のポケットに緊急時にすぐに応援を呼べるようにボタンを押せるものがあった。そのボタンを押すと、全館放送で、どの時間帯だろうが構わず、エリーゼのためにの音楽とともに「◎館●階ペック」という男性の声で放送がかかる。私は、ペックの常連だった。ペックがかかると、医者も看護師も、各病棟から集まり、私をベッドに押さえつけ、バルーンを入れ、点滴をしていた私に、隔離・拘束の指示を出し、注射の指示を出す先生も居た。病棟OTで、ビーズとかやっていると、片っ端から引っくり返して回った。キラキラしたのが奇麗だったから。車椅子のおばあさんが、時間外にお風呂に介助で入っているのを発見した時、怒りまくって、車椅子ごと押し倒した。時間外に入っているのが理解出来なかった。親とも良く喧嘩して、病院の親電話を壊して、50万円弁償させられたらしい。うんちの塗りたくりもよくやった。布団もうんちまみれ、自分もうんちまみれ、部屋中うんちまみれ、あの時はどういう心境だったんだろう。少なくとも、うんちが臭いとか、汚いとか言う感覚はなかったに違いない。保護室には、給湯器があって、お茶が自由に飲めたので、お茶をがぶがぶ飲んでは、嘔吐すると言うのもやっていた。人間ポンプごっこみたいな。保護室には、水道もあるので、暑い時、洗面所にすっぽりはまって水を張り、折り紙で魚を作って、遊んでいても、若さ故に許してくれたのか、時代だったのか、今では考えられない。ご飯は、どんぶりにおかずを乗せてもらって、一口サイズすくって食べていた。見守りをしていないと、異食してしまう。例えば、プリンが出て、プラスチックのスプーンがついてくると、プラスチックのスプーンごと食べてしまって、危険な目にあったことがあった。口の血だらけになり、発見されたから、飲み込む前に見つかったのだけど、見守りが居なかったら、危なかった。保護室から出るときは、見守りが付くのだけど、2〜3時間の開放時間に、ホールで碁石に夢中になっていたかと思うと、夢中になりすぎた余り、碁石を口の中に入れてしまって、ナースルームで見ていた看護師さんが、私を取り押さえ、頑として口を私に開口鏡で無理矢理口を開け、碁石をかき出された。一応、飲み込んでいないか、X線撮影もした。33歳の時、臨床心理士の先生が交代になり、その先生が、私は人格障害じゃない、なんかが違う、テストをやってみましょうと、知能テストをやってみた所、発達障害の症状が明らかだったので、治療方針を極端に変えた。そこから、今の主治医の先生に交代になる。外来では、週に2回通って、点滴を受け、先生による2時間近くも受けていた頃もあった。でも、外来で、待合室の椅子の下にもぐったり、デイケア3窓から身を乗り出して、簀巻きにされて運ばれたり、私を入院させるには前もって病棟側で準備必要とされ、何となく半年経つと入院が必要になって来る状況で、いつも救急病棟の保護室に入院していた。強い心で、ちゃんと入院しようと思っても、入院すると退行してしまい、叫びすぎて声がかれたり、拘束から逃れることしか考えられなくなり、みんなが敵に思え、治療に専念出来ず、異常行動をとってしまう。多分、保護室と言う周りの環境も影響していると思う。🌠 彼との出会い、恋愛彼と言うか、元彼と言う立場になっているのですが。ここでは、彼としておきます。彼とは、平成15年、今通っている病院に入院中、私は患者、彼は看護補助と言う立場で出会った。初めての出会いはすぐで、ビビット来る物があり、会話も弾んだ。最初の病棟を退院する時、私が、看護師さんや、先生や、看護補助さんは彼を代表して、お手紙を書いた。しかし、彼だけにはダメ元でメルアドも書いておいた。帰ってみると、彼から「退院おめでとう」と、パソコンにメールが入っていた。その頃、歌や演劇のオーディションを受けて、八王子まで毎週レッスンを受けて、アクターズスクールと言う所に通っていた。「怒り」や「喜び」を体全体で表現してみたり、「悲しみ」を作曲して歌ってみたり、苦手な人は、絵にしてみたり、楽しいんだけれど、私はみんなの輪の中にうまくとけ込めず、ヘルパーさんが必要でした。彼と出会ってからは、アクターズスクールに一緒に行くようになった。そこから仲が深まった。それまでは、移動支援の人に連れて行ってもらっていたのだ。あちこちに、出掛けるようになり、お泊まりもするようになり、愛が深まるに連れて、本格的にお付き合いをしようと、お互いの挨拶に行った。「真剣にお付き合いをしています」と。でも私は急展開過ぎるようなきもしていた。付き合って3ヶ月で、体を求められた。私はレイプのことも話してあった。だからこそ、そういうことは、慎重になってもらいたかった。両親にも話が行くと、私たちの行動も大胆になり、病院内でも噂が立ってしまい、彼は私が患者である病院では働けなくなってしまった。看護部長から、自主退職を促されたようだ。彼は、性に欲求が強く、普段は優しいのだけれど、区切りをつけては、私をホテルに誘うようになった。元旦だから、給料出たから、競馬が当たったから、暑いから、寒いから、理由はきりがない。彼も、私と出会っても、時々いかがわしいお店、特にロリ系のお店に行って、捕まったこともあり、それでも私と体の関係を求めて来て、強引で、やっぱり自分だけ気持ちよくなるのはずるいとか、生でやりたいと勝手にゴムを外してしまったり、可愛い声出して、俺が逝けないよ、とか無理な注文ばかりで拷問でした。彼は、何万もする洋服や、バッグ、財布、指輪、何でもお揃いで買ってくれた。私は申し訳ないから、お返しに、7千円くらいの物を渡すのだけれど「姉ちゃん、喜びそう」と言われてしまう。そこにいつも、ふつふつとしたものを感じていた。最初こそそんなものの、付き合って行くうちに、いやいやホテルに入っているのに「少しは払わないの?」とかつぶやかれました。結婚も考えた。でも、その時、彼に職はなく、資格ばかり追い求めていては、毎年落ちている状態で、真面目に勉強もせず、将来設計もなく、運が良ければ受かると考えている。いつも、何とかなるでしょうと言っていて、しまいには、三鷹市(私の家とまで言った)に住みたいな、とか、私の障害年金を生活費の当てにしたりし出して、両親は泣きながらこの時ばかりは大激怒した。それから、両親は、極端に、彼を避けるようになった。私も、結婚はしない、子供は作らないと誓ったのに、彼は私の体を求めて来るのには変わらないのだった。段々、上辺だけの付き合いになって来た。会うことにときめきを覚えなくなって来た。お化粧もしなくなったし、前日に、洋服の準備もしなくなった。どうでも良くなった。ただ、時間通りに間に合わせないと、怒りの頂点に達するので、それだけは気をつけた。本格的に別れようと、何度も思った。そのつもりだった。現在は、お付き合いしていないことは確か。彼に好きな人が出来れば、どうぞご自由にと言ってある。お互いに好きな道を歩みましょうとも話し合ってある。でも、会うことはもうないけれど、ラインは時々送られて来る。電話は絶対にかけないけど。誕生日も祝わないけど。たまに「今日は暑いね」とか「今日は仕事休み」とか、他愛ない言葉を送信している。どちらからともなく。そこに元彼だから、縁を切らなければいけないと束縛も無い気がする。もう大人だし。彼に、女性が出来れば別だけれど。🌠 措置入院精神的に不安定になった15歳の頃から、自分の部屋や、家の中に私は苛立をぶつけていた。包丁、はさみ、刃物類、薬は、家族が徹底的に隠していた。それでも、OD(大量服薬)や、リストカットで、病院に運ばれることがあった。大声で時を選ばず叫び、勝手に110番して逆探知され、警察が家に来ることは何度もあった。34歳の時、家で飼っていた鳥を父がいじめたので、怒って家出した。靴も履かずに、裸足で真冬夜中の町の中、上着も着ないで、どこを歩いているかも分からず、ひたすら歩き続けたら、警察署に補導された。両親が迎えに来たが「絶対に帰らない」と頑に言っていたら、警察官も諦めて、その日は、警察署の保護室に泊まることになった。警察署の保護室は、檻みたいな所で、血だらけの毛布を1枚だけ渡され、一度も洗っていないであろう感じのもので、でも寒いからそれしかなくて、壁側を向いて寝ようとすると、いつ自殺するか分からないから廊下側を向いて寝ろと言われて、1時間おきに巡回が来た。トイレも中まで監視された。私は未成年だと思われていたようで、少年課のお姉さんが対応していた。尿検査もされた。私はただの家出少女。でも、警察署には手錠をかけた人が、次々と入って来る。翌日、病院の主治医の先生に電話をかけてもらったら「34歳なんですか?」と驚いていた。措置入院は、39歳頃かな?彼とデートからの帰り道、家まで送ってくれて、後ろに車が来てて、「隣りの親父がストーカーしてる!!」と完全に妄想にやられ、一晩中騒ぎ、朝、包丁を振り回し、お風呂場に立てこもって、「殺してやる!」「死ね!」と狂い、お風呂場から出て来ると、警察に電話して、「奴を殺せ!ストーカーの罪で逮捕しろ!!」と電話する。すぐに、パトカー、消防車、救急車が集まる。警察官は、私の対応、両親の対応の二手に分かれる。私の対応の人は、顔なじみらしい。「辛いでしょ。病院行こうか」と言われて、やっとのことで行くけれど、乗った車は覆面パトカーだった。警察官に挟まれ、載った瞬間にサイレンが鳴った。しかも私が発達障害と聞いて、何も分からないと思ったのか、私の悪口をぼろくそ言っていた。「こいつ、くせーよ。糞してんじゃねーの?」とか。通院先の病院に着くと、主治医の先生は、私の顔を一目見て「措置、行っちゃって下さい」と言った。上野とか回ったらしい。私は、措置入院の判定を受けた。よく分からないけど、質問に答えられなかった。床を転げ回っていた。判定結果、措置入院決定。杉並区の病院へ救急車で運ばれる。私はずっと叫んでいたので、保護室の一番奥の部屋に入れられた。おむつを頑丈に当てられ、抑制帯も頑丈にされ、身動きも全く取れなかった。「何かあったらナースコールで」と言われたけど、ナースコールは頭上にあり、届かないし、声も枯れていて出ないので、全くの無抵抗。薬は、一日全体で5錠くらいになっていた。いきなりの減量についていけなく、禁断症状が出たのか、1日目の夜、吐いてしまったが、声が出なくて訴えられなかった。動きも人形のようになってしまった。抑制が取れると、「何でおむつしてるの?」と聞かれた。主治医に「みんなと一緒の食堂でご飯が食べれたら、退院も考えてあげる」と言われた。最初はフリーズしてしまってダメだったけど、頑張って食べられるようになった。食堂に行くと「女子大生?」と聞かれ、沢山の人が寄って来た。男性看護師さんも、私と戯れてからかって遊ぶのが面白かったらしい。でもどうしても、元の病院に戻りたくて、最短の措置入院の2週間で済ませ、退院して、すぐに元の病院に転院して、入院し直した。🌠 発達障害と診断されて30代になるまで、私の診断名は「統合失調症」だったり、「境界性人格障害」だったりした。でもそれまでずっとカウンセリングしていてくれた心理の先生が、長い間お休みに入ると言うことで、代わりに入った先生が運命の出会いとなった。心理面接を重ねて行くうちに「この人は、人格障害なんかじゃない。もっと、大変な障害みたいなものを持っている。早く検査をしなくちゃ」と思ったそうだ。知能検査や、発達障害の検査をしたら、私は、言語性IQと動作性IQの大きく開いていて、典型的な発達障害と分かった。私への対応を変えることになった。このまま注意をしても、何も本人には入っていないことが分かった。言い方の問題。ゼロから立て直そうと言うことになった。我が家では、もやもやしていたものが「障害から来るもの」「生まれ付きのもの」「子育てが悪い訳ではない」と分かって、みんなが喜んだ。今まで、バカにされ、責め続けられ、何で分からないのか、何で出来ないのか、と言われ続けて来た敗北感、屈辱感、虚しさ、などからやっと開放された気がした。しかし、障害名が付いても、そこからが戦いだった。🌠 入所施設に入所して町田市の重度身体障害者施設に入所した。きっかけは、親から離れたかったからだ。東京都の入所施設、100件近く、自分で全部電話して、空きがないか聞いて回った。その中で唯一、「見学に来てみますか?」と言われた所が、町田市の施設だった。全員が、身体障害者手帳を持っていて、90%近くの人が車椅子。精神障害のみの人は、私だけだった。区分が高かったから入れたようなもんだった。精神障害のみの受け入れは、初の試みらしく、特に自閉症、発達障害は、全く事例がなく、戸惑っているようだった。それでも私の「入所したい」という強い意志があったため、短期入所からやってみようと、始めて見たら、本入所まで2ヶ月近くもかかってしまった。本入所が決まったのは、平成25年5月のことだが、その頃には、私は車椅子を購入するようになっていた。施設に始めて来た時には、歩いて来たのに。そして、同時に、ヘッドギアも欠かせなくなっていた。自室の床には、転倒防止に、クッション素材のマットを敷くように言われた。手のかかる人として有名になった。何をしても、浮いた存在になってしまう。やけになっていた気もする。利用者さんの大半は、両親がいなかったり、施設まで面会に来れなかったり、外泊は難しい人がほとんどだった。その中、私は、しょっちゅう、外泊していた。両親にわがままばかり言っていた。その頃の両親は、私に対する愛情の掛け方が下手で、過度に心配する母と、お金のことばかり頭にある父との関係に、怒鳴り合いが怒り、私はストレスフルだったのだ。私も沢山問題を起こして来た。そこに、夜中の脱走・迷子事件。堪忍袋の緒が切れ、退所処分。受給者証が平成28年2月29日、施設を退所した。甘えも出てしまったのかもしれない。実際に自制が利いてなかったと思う。退所する日、私は車椅子に乗っていなかった。その日以来、ヘッドギアも被っていないし、車椅子にも乗ることはなくなった。しかし、病名が1つ増えた。「転換性障害」

ゆこたんの生い立ち①(生まれてからS病院入院まで)

🌠 生まれてから小学生まで体重2860g、50cmと標準で生まれて来た私。長野県で里帰り出産をした。数日しか変わらない同じ病院に従姉妹が入院していたので、母は何かと育児の面で比べては気に病んでいたらしい。おっぱいを飲まない、体重が増えない、髪の毛が少ない、など。でも、幼稚園に入ってしまうと、活発な子になり、何でも進んでやる子だった。早生まれだったので、発育はどうしても他の子に比べて、クラスの中では遅かった。目立った知能の遅れ、発達の遅れは見られなかった。3歳半で弟が出来たけど、退行することもなかった。でも、気になる点と言えば、数字や文字をじっと眺めるのがすぐに覚えてしまうこと。電話番号や、誕生日などは特に。何度かどうしても幼稚園に行かないとダダをこねたことはあったけど、原因は私も覚えていない。よくあることだろう。幼稚園には。母は、家の中でも外でも、弟と一緒に公園などに連れ出してはよく遊んでくれた。家には、1人1台ずつおもちゃのマイカーがあり乗って走り回っていた。補助輪付き自転車や三輪車もすぐに買ってくれた。ただのサラリーマン家庭なのに、子供には尽くしてくれたと思う。生まれて5ヶ月で阿佐ヶ谷のアパートから国分寺の一軒家に引っ越して来た。🌠 小学校時代入学当初から、とにかく落ち着きがない子だった。担任の先生からもよく注意されていたそうだ。小学2年生で引っ越すまでは、本領発揮とは行かず、それまでは男子と近くのアメンボ取りをしていたり、1人自転車で走り回っていた。成績も悪かった。女子たちからは、仲間外れにされていた。給食を残してはいけないので、大嫌いだった。でも2学期に府中へ引っ越してからは、めきめき成績もアップ。成績がいいと、一目置かれる。3年生からは、学級委員を毎回やり、4年生になると児童会の仕事もやるようになる。目立つことが大好きで、運動会では、応援団長をやり、鼓笛隊の指揮者をやり、常に前に立つ。4年生頃から、中学受験を考え、塾に通い出すとともに、お稽古ごとも、1年生から始めていたお琴は続けていて、発表会には着物を着て参加。お琴も買った。塾代に、お琴や着物の費用、お稽古ごとだけで5つくらい、私も忙しかったけど、母は内職をしながら、文句一つ言わずに、子供のために費やしていた。父は出張が多かった。病気の兆候はまだ見られなかった。父も母も私の中学受験の勉強に熱心に付き合ってくれていた。結局、東京都の高校までストレートに上がれる有名女子中学に合格した。私立に受かったのは、クラスで1人だけだった。🌠 中学校時代1学年女子ばかり500人というマンモス校。歴史も深い。家から電車を乗り継いで、1時間10分で丁度着く。父の会社が途中にあるので、よく一緒に通学した。礼儀作法に厳しい学校だった。授業の始まりと終わりは「ごきげんよう」。私は、部活をバトン部に入り、かわいい衣装を着て舞台に立ち、決してうまくはない演技を披露した。でも、副部長だった。先輩、後輩から人気だけはあった。運動会などでも、先輩に差し入れをすると言って、友達の家に行って、一緒にお菓子作りをしたり、また、後輩からも差し入れをもらったりした。交換日記もして、100冊くらいになった。文化祭、卒業式、新入生歓迎会、何かの舞台があると花束の山に埋もれた。でも、高飛車に出ている訳ではない。当たり前とかも思っていなかった。私は中学時代、男性教師の方に恋しやすく、特にI先生とH先生に熱狂的ファンになった。プロマイド写真のように、胸ポケットに100枚くらい写真を忍ばせ、その先生の授業の時には、おしぼりを用意して、クラスのみんなが私の恋を応援してくれた。でもH先生は、結婚してしまった。すると、結婚式場を突き止めて、クラスメイトが、制服のまま、結婚式場に電車を乗り継いで、一緒に行ってくれた。今思うと、迷惑な話だと思う。クラスでは、保健委員と代表委員をやり、父の会社の通信制の勉強をしていたら成績もアップ。50人のクラスでトップクラスに入っていました。気付くと、クラスの子たちが、通信制の教材を紹介して欲しいと言って来ました。卒業式では、大号泣でした。謝恩会もあったのですが、意味が分からなかったので、母も出たし、クラスの全員が出たのに、私は学校が好きで、学校に残って、学校に残っていた先生たちといつまでも写真を撮っていました。クラスで作った文集みたいなのに、「ゆうこちゃんは、将来アイドルか、かわいいお嫁さんになると思う」と書いてあり、両方叶わなくてごめんね、という気持ちでいっぱい。先生からも、5年は遅れていた感じの純粋な子供だった、と言われていた。🌠 高校時代入学当初、外部受験の子たちが100人入って来るので、成績は見事に100位に落ちた。1年生の5月に訓練合宿と言うのがある。その名の通り、ひたすら走り、回れ右の練習を繰り返しやる、挨拶の特訓、掃除、団体生活の基礎、そういったものを学ばされるが、今の時代のように、水を飲ませなくちゃなんて言っている先生はいなかった。とにかく炎天下の中、休憩を挟まず、倒れる人がいても、続行してやっていた。私は、訓練合宿の最中は何ともなかったけど、帰って来てから、ここからが暗闇への入り口とさしかかった。最初に起こった症状は、大好きなはずの学校に行こうとしても、駅まで向かう最中の自転車で、どうにも気分が悪くなってしまう。そのうち、自転車に乗れなくなってしまう。頭痛、めまい、吐き気で、その場でうずくまってしまう。携帯なんてない時代。公衆電話になんとかたどり着いて、迎えに来て・・・と頼んでいた日々。でも、親も毎日は譲らない。車に無理矢理乗せて、力づくで両親で、私を駅まで送っていくけど、やがて同じ電話がかかって来るのだった。15歳にして胃の検査をしたけれど、結果は異常なかった。でも、大きな病院を勧められた。15歳、高校1年生の6月のことだった。都内の総合病院。吐き気が主訴と言うことで、最初は内科にかかった。薬を飲んだが治らなかった。喉に何かつかえるような気がすると言っては、耳鼻科にかかり、皮膚がかゆいと言っては皮膚科にかかっていた。同時期、私に手がかかっていたので気付かなかったけど、弟も苦しんでいた。弟も、学校に行こうとすると、下痢、腹痛に苦しめられ、中学生だった弟は、私立の男子校に通っていたが、父によるスパルタ教育で、私なんかより一層厳しくしつけられ、弱々しく自力で家に帰って来ても、母と病院に行っている私は知らない間に、弟は、体罰のような物を受けながら無理矢理学校に行かされていた。唯一休日、ファミコンで心休ませていても、時間を1分でも守らないと、父によって配線を切られてしまうのだった。友達を連れて来ても「うるさい!」と怒鳴られていたそうだ。私はどんどん殻の中に閉じこもるようになり、食事も家族の前では食べなくなり、母がお弁当箱に食事を詰めて、部屋の前に置いて、声をかけた。すっかり反抗期になっていた。親は信じられない。死んでやる。何度もカミソリで、リスカした。病院では、精神科に移っていた。親子カウンセリングと言うのを受けていて、親子別々の先生で、それぞれにカウンセリングを受けていた。私は、学校では好きな教科は何?とか、将来何になりたい?とか聞かれていた。でも本当はそういう簡単な質問をしながら、肝心な話をしていたんだと思う。部屋では、ドアが開かないようにバリケードを張って、誰も入って来れないようにした。部活はバトン部だった。でも、学校には行けていない。合宿にもこの体調のため出れていない。なんとか、一部だけ舞台には立てていたけど、仲間には迷惑かけていた。それでも2年生では大会に出た。金賞を取った。関東大会にも出た。青春してるって感じだった。でもその2年生の時、問題が一番ひどかった。学校で友達と、家に帰らないと言って先生を困らせ、16歳にして、学校の近くの大きな公園に夜中いて、警察に補導された。友達は平然として、おまわりさんにジュースを買ってもらったりしていたが、私は親が迎えに来る恐怖で固まっていた。車の中で、両親は何も言わなかった。次の日、両親は学校へ謝罪に行った。よく辞めさせられなかったと思う。17歳の夏、通っていた通院先で、入院の話が出た。私は子供の病院ならいいと言った。そうしたら、都内の小児病院の精神病院を紹介された。3歳から18歳までの子供たちが、大きな敷地内に病棟ごとに分かれて入院している。私は最初、女子思春期病棟・閉鎖病棟に入院した。主治医は28歳男性だった。親、特に母親は、子供がどんなに手がかかっても、自分の手から離れ、鍵のかかる扉をとかけられた時には、声を上げて泣いた。「ゆこたん、元気でいるんだよ」と母。その病院の中には、養護学校も併設されていた。小学校と中学校だけだから、高校生の私には関係ないけど。それに大学受験を考えていた私には、養護学校なんて親が許さなかった。病院にいて、どんな環境の中でも、勉強、勉強だった。私はストレスがたまって行き、周りの子たちを真似るように、リストカットを覚え、病院から学校に行くようになってからは、帰りがけにカミソリを買って帰るようになった。暴力もひどくなった。この時代の精神病薬は、今とは違う。母がよく言う。目つきが違っていたと。子供に飲ませてはいけないはずの薬なのに。物に当たる。人に当たる。自分にも当たる。母は、私の送り迎えが始まったので、ペーパードライバーから、車を乗りこなせるようになり、毎回私に会った後は、きたろうのシンセサイザーの曲を聴いて泣きながら運転していたそうだ。奇しくも、母が今の私の年令くらいだったようだ。40くらいかな。病院には、カミソリを買ってしまうので、母が朝迎えに来て、学校まで電車で送って行って、送り届け、帰りは定時に迎えに行って、また病院に送り届ける。この日々が、半年くらい続いた。母は、4時に起きてお弁当を作り、自転車を走らせ、駅に向かう。その頃、弟の具合も悪くなっていた。今思えば、私に愛情が行ってしまって、父の過干渉がストレスになっていたんだろう。過敏性腸症候群になっていた。弟も学校に行けなくなっていた。でも母は、私の方しか見れる状態ではなかった。私を学校へ送って行った後、行けなくなってしまった弟の中学校に自転車を走らせ、校門の所でなんでこうなったのか、と涙したと言っていた。勉強はさっぱり分からなかった。定期テストも、先生が答えを教えてくれた。それさえ覚えられなかった。私は国立コースのクラスにいた。だから周りは医大とかを目指している。センター試験を受けるような人たちだ。東大にも何名も受かる。私は、同じ外部受験組でも、上に上がる能力がないから、仕方なく外部の短大を受けるのだ。ランクを下げて。受験指導をしている父には、顔に泥を塗ったことになる。弱気になっていた私は、専門学校でいいとか言っていたけど、親が絶対許さず、どこでもいいから、大学に入りなさい、留年してもいいから、と言って受けさせた。数打ちゃ当たるで、6校くらい受けた。受験料だけで100万超える。まず1校本命ではない所が受かってしまったので、入学金を納めた。バブルの時代。かなりの金額のはず。でもその後に奇跡的に第2希望の所が受かっていて、もうそこに決定。幼児教育科幼児教育専攻。高校からも、通知表に「卒業」というを押してもらい、散々お世話になった高校とも制服ともお別れした。高校卒業と同時に、一旦、病院も退院した。思えば、受験も病院からだった。18歳になっていた。やっと家に帰れる。🌠 短大時代家からバス2本乗り継いで行く所にある大学の付属の短大の当時は女子大だったけど、今は共学校になっている幼児教育科幼児教育専攻に入学した。これで全てがうまくいくかと思った。夢の短大生活が始まるかと思っていた。今までしたこともなかった化粧水、乳液からそろえ始め、お化粧品もデパートで買った。スーツも買いそろえた。その短大は、第2希望とはいえ、高校に比べ、ランクがずっと下だった。偶然、短大の同じクラスに、小学校の同じ学年の子がいた。非常に気まずかった。ほとんどというか、全く話さなかった。サークルの勧誘もあった。でも私はその頃、入院していた小児病院に通院すると同時に、芸能界に憧れを抱き始めた。年令18歳。ホリプロスカウトキャラバンを受けた。歌の審査、面接、書類審査などあったように思う。何万人と言う応募の中から、関東地区代表の第3次予選まで行ったけど、そこまでで終わった。だけど特別枠という形で、モデルとしてレッスンを受けないかと言われた。病院の先生に相談すると、将来はモデルさんとして生きていきなさい、と言われたので、芸能界に入ることに決めた。でも、現実は、レッスン費ばかりかかって、お仕事は余り入らなかった。当時はやっていた、おばたりあんのエキストラ、JR東日本のCMの通行人役、1本出演すると出演費は大きいけど、なかなかヒットしない。24歳になる頃には、自ら雑誌に仕事を応募して探さないとなかった。それに、短大に入ると、私は、急に、発達障害の症状が顕著に出出した。今思うと、なんだけど。先生の説明を聞きながら、黒板の文字をノートに写せなくなった。とにかく出席しているのに、ノートが取れない。1年生のうちは、友達がノートを無料でコピーしてくれていた。私は、コピー代がかかると言うことまで、頭が回らなかった。毎日全教科、コピーしてくれていた。158cmで体重42kgだった私は、掲示板に学生番号と、名前が貼り出され、保健室に来るようにと書いてあった。低体重で、拒食症気味だと言われた。そう言われたのが、快感だった。気を良くした私は、リストカットが再発し、また、精神不安定になって行った。クラスでも浮いていた。薬を飲んでいるため、眠くてたまらない。そして私は2年生のとき、単位を落として、留年したため、休学した。みんなと1学年ずれることになる。そして、19歳の時、また、小児病院に入院した。この頃、ピアノのレッスン中、意識を失って倒れるというてんかん発作のような物が2回もあり、救急車で運ばれている。入院中は、今度は、ずっと個室のまま、外に出してもらえなかった。この頃から、失禁するようになった。我慢する力が弱い。当時は洗濯は、病院側。子供なので、入院費もかからなかった。結局、20歳の自分の誕生日まで、入院出来る限り、入院していた。その後は、思春期デイケアに通った。主治医のカウンセリングの他に、心理療法を受けた。学校へ復活すると、私の居場所はなかった。出席番号は一番最後にされていた。何もやる気がしなかった。ただ、何となく短大に通っていた。一応、就職活動なる物をやってみたけれど、一般企業も、幼稚園も、片っ端から落ちた。仕方が無いから、やることがないから、短大は卒業し、付属の専攻科幼児教育専攻に入ることにした。🌠幼稚園で、専攻科に進んで留年して、幼児教育科を終えて、就職活動はしたけれど、一般就職はことごとく落とされ、幼稚園も、風の噂を聞いたのか、私の名前を出すと断られる。仕方がないので、流れで専攻科へ進んだ。生徒は10名。専攻科は、午前中は、付属の幼稚園で担任補助。実習は、何回もしているので、なんとかなりそう。給料ももらえる。3歳児組の人と、4歳児組の人と分かれたが、私は3歳児になった。入学式の写真にも写ってしまった。おかあさんといっしょのショーのテレビにも映ってしまった。しかし、どの画像も表情が暗い。心から園児と楽しんでいない。園児の名前もどうしても覚えられない。頭の中は、担任の先生に提出する記録のノートのことでいっぱい。常にメモを持って、何時何分、何が起こったとメモをしていた。行動より先にメモだった。記録をしなくてもいいと言うならば、私はもっと園児と打ち解けたはず。「ゆこたん先生、もっと子供たちに話しかけてあげて下さい」いつも言われる言葉。紙芝居も、感情がこもっていないと言われる。何をするにも、導入がないと言われる。「固定遊具は、見守りではなくて、一緒に遊んであげて下さい。きっと、喜びますよ」分かっているけど、出来ない。そのうちついに、園長先生から、「ゆこたん先生、勤務の回数、減らしましょうか」と告げられる。苦情があったのかもしれない。何をやるにも、時間がかかる。園児たちは、勝手に暴れまくる。外に飛び出す。何の考えもなさ過ぎた。午後は授業だ。私には友達が居ない。でも誰かが「昨日、救急車で運ばれて」としゃべっていると、「え!私も乗ったことあるよ!何で乗ったの?どこの病院行ったの?入院しなかったんだね?私はしたよ」とか、空気読めないやつだった。この頃、少ししか食べないで、コーラック1箱飲んだりしていた。1回にだ。病院の子は、本気でお腹にギョウ虫を飼うのが憧れだったみたいだけど。卒論は、小さい頃、自閉症の子とよく遊んでいて、小学校も学年が違うのに、よく私の教室に来てしまう子が居たその子のことを書いた「自閉症について」にした。でもまさか、自分も自閉傾向があるとは思っても居なかった。その時は。🌠 学生生活を終えて、入院 〜精神病院 S病院〜もう20歳を過ぎているので、今までの小児病院には入院出来ない。S病院を紹介された。大人の精神病院はすごい。半閉鎖病棟だったけど、柱に椅子におばあさんを座らせて、紐で朝から晩まで縛り付けておく。おばあさんは、独り言を大声で叫んでいて、近寄るとつかみかかってくる。みんなそれを楽しんでいる。私はいつも、ぼんぼんみたいな人が主治医で、ひどい状態の時は、保護室にずっと入れられて、保護室がいっぱいになると、2人一緒に入れられて、うんちまみれにされ、でも声が届かないし、滅多に来てくれないし、来てくれた所で、要望なんて聞いてくれない。動物扱い。お風呂も入れない。入れても、1人5分で「交代!」とコールがかかる。お正月の保護室は1人だったけど、廊下の窓の隙間から、水とか食事とか配給される。少しでも逆らったらもらえない。助手さんが、窓から「下がって」と言う。最も離れてから、水を窓枠に置き、逃げるように去る。主治医は1日に7回はお尻に注射してた。北斗七星だと思ってた。真っ青になったお尻。ここには3年間入院していたけど、本当に悪夢だったのは、閉鎖病棟の方で、私はおむつをしていたので、赤ちゃんみたいに寝かされ、3人部屋なのに、他の2人は病棟自体がトイレットパーパー使用禁止で、昔ながらのちりちりの四角いぼろいちり紙で鍵がなくて、下が空いているトイレで用を足していたらしい。でも私は、完全におむつで、時間になると、ばっちゃんが、おむつの人を交換に回る。私はずっと寝かされていて、食べさせてもらうだけ。でも、部屋の住民が「臭い」とか「こいつ、やだ」とか言う。閉鎖病棟の保護室を覗いてみたら、比較にならない程、状態の悪い患者さんが居た。ホール近くのおばあさんたちも、異様にキーキー言っている。出たいよー、出たいよー。主治医に頼み込んだ。こっちは辛すぎると。じゃあ、○日まで待ちなさい、と言われて戻してくれた。