ゆこたんの生い立ち①(生まれてからS病院入院まで)

🌠 生まれてから小学生まで

体重2860g、50cmと標準で生まれて来た私。長野県で里帰り出産をした。数日しか変わらない同じ病院に従姉妹が入院していたので、母は何かと育児の面で比べては気に病んでいたらしい。

おっぱいを飲まない、体重が増えない、髪の毛が少ない、など。

でも、幼稚園に入ってしまうと、活発な子になり、何でも進んでやる子だった。早生まれだったので、発育はどうしても他の子に比べて、クラスの中では遅かった。目立った知能の遅れ、発達の遅れは見られなかった。3歳半で弟が出来たけど、退行することもなかった。

でも、気になる点と言えば、数字や文字をじっと眺めるのがすぐに覚えてしまうこと。電話番号や、誕生日などは特に。

何度かどうしても幼稚園に行かないとダダをこねたことはあったけど、原因は私も覚えていない。よくあることだろう。幼稚園には。母は、家の中でも外でも、弟と一緒に公園などに連れ出してはよく遊んでくれた。家には、1人1台ずつおもちゃのマイカーがあり乗って走り回っていた。補助輪付き自転車や三輪車もすぐに買ってくれた。ただのサラリーマン家庭なのに、子供には尽くしてくれたと思う。

生まれて5ヶ月で阿佐ヶ谷のアパートから国分寺の一軒家に引っ越して来た。


🌠 小学校時代

入学当初から、とにかく落ち着きがない子だった。担任の先生からもよく注意されていたそうだ。小学2年生で引っ越すまでは、本領発揮とは行かず、それまでは男子と近くのアメンボ取りをしていたり、1人自転車で走り回っていた。成績も悪かった。女子たちからは、仲間外れにされていた。給食を残してはいけないので、大嫌いだった。

でも2学期に府中へ引っ越してからは、めきめき成績もアップ。成績がいいと、一目置かれる。3年生からは、学級委員を毎回やり、4年生になると児童会の仕事もやるようになる。目立つことが大好きで、運動会では、応援団長をやり、鼓笛隊の指揮者をやり、常に前に立つ。4年生頃から、中学受験を考え、塾に通い出すとともに、お稽古ごとも、1年生から始めていたお琴は続けていて、発表会には着物を着て参加。お琴も買った。塾代に、お琴や着物の費用、お稽古ごとだけで5つくらい、私も忙しかったけど、母は内職をしながら、文句一つ言わずに、子供のために費やしていた。父は出張が多かった。病気の兆候はまだ見られなかった。父も母も私の中学受験の勉強に熱心に付き合ってくれていた。結局、東京都の高校までストレートに上がれる有名女子中学に合格した。私立に受かったのは、クラスで1人だけだった。


🌠 中学校時代

1学年女子ばかり500人というマンモス校。歴史も深い。家から電車を乗り継いで、1時間10分で丁度着く。父の会社が途中にあるので、よく一緒に通学した。礼儀作法に厳しい学校だった。授業の始まりと終わりは「ごきげんよう」。私は、部活をバトン部に入り、かわいい衣装を着て舞台に立ち、決してうまくはない演技を披露した。でも、副部長だった。先輩、後輩から人気だけはあった。運動会などでも、先輩に差し入れをすると言って、友達の家に行って、一緒にお菓子作りをしたり、また、後輩からも差し入れをもらったりした。交換日記もして、100冊くらいになった。文化祭、卒業式、新入生歓迎会、何かの舞台があると花束の山に埋もれた。でも、高飛車に出ている訳ではない。当たり前とかも思っていなかった。私は中学時代、男性教師の方に恋しやすく、特にI先生とH先生に熱狂的ファンになった。プロマイド写真のように、胸ポケットに100枚くらい写真を忍ばせ、その先生の授業の時には、おしぼりを用意して、クラスのみんなが私の恋を応援してくれた。でもH先生は、結婚してしまった。すると、結婚式場を突き止めて、クラスメイトが、制服のまま、結婚式場に電車を乗り継いで、一緒に行ってくれた。今思うと、迷惑な話だと思う。クラスでは、保健委員と代表委員をやり、父の会社の通信制の勉強をしていたら成績もアップ。

50人のクラスでトップクラスに入っていました。気付くと、クラスの子たちが、通信制の教材を紹介して欲しいと言って来ました。

卒業式では、大号泣でした。謝恩会もあったのですが、意味が分からなかったので、母も出たし、クラスの全員が出たのに、私は学校が好きで、学校に残って、学校に残っていた先生たちといつまでも写真を撮っていました。クラスで作った文集みたいなのに、「ゆうこちゃんは、将来アイドルか、かわいいお嫁さんになると思う」と書いてあり、両方叶わなくてごめんね、という気持ちでいっぱい。先生からも、5年は遅れていた感じの純粋な子供だった、と言われていた。


🌠 高校時代

入学当初、外部受験の子たちが100人入って来るので、成績は見事に100位に落ちた。

1年生の5月に訓練合宿と言うのがある。その名の通り、ひたすら走り、回れ右の練習を繰り返しやる、挨拶の特訓、掃除、団体生活の基礎、そういったものを学ばされるが、今の時代のように、水を飲ませなくちゃなんて言っている先生はいなかった。とにかく炎天下の中、休憩を挟まず、倒れる人がいても、続行してやっていた。私は、訓練合宿の最中は何ともなかったけど、帰って来てから、ここからが暗闇への入り口とさしかかった。

最初に起こった症状は、大好きなはずの学校に行こうとしても、駅まで向かう最中の自転車で、どうにも気分が悪くなってしまう。そのうち、自転車に乗れなくなってしまう。頭痛、めまい、吐き気で、その場でうずくまってしまう。携帯なんてない時代。公衆電話になんとかたどり着いて、迎えに来て・・・と頼んでいた日々。でも、親も毎日は譲らない。車に無理矢理乗せて、力づくで両親で、私を駅まで送っていくけど、やがて同じ電話がかかって来るのだった。15歳にして胃の検査をしたけれど、結果は異常なかった。でも、大きな病院を勧められた。15歳、高校1年生の6月のことだった。

都内の総合病院。吐き気が主訴と言うことで、最初は内科にかかった。薬を飲んだが治らなかった。喉に何かつかえるような気がすると言っては、耳鼻科にかかり、皮膚がかゆいと言っては皮膚科にかかっていた。同時期、私に手がかかっていたので気付かなかったけど、弟も苦しんでいた。弟も、学校に行こうとすると、下痢、腹痛に苦しめられ、中学生だった弟は、私立の男子校に通っていたが、父によるスパルタ教育で、私なんかより一層厳しくしつけられ、弱々しく自力で家に帰って来ても、母と病院に行っている私は知らない間に、弟は、体罰のような物を受けながら無理矢理学校に行かされていた。唯一休日、ファミコンで心休ませていても、時間を1分でも守らないと、父によって配線を切られてしまうのだった。友達を連れて来ても「うるさい!」と怒鳴られていたそうだ。私はどんどん殻の中に閉じこもるようになり、食事も家族の前では食べなくなり、母がお弁当箱に食事を詰めて、部屋の前に置いて、声をかけた。すっかり反抗期になっていた。親は信じられない。死んでやる。何度もカミソリで、リスカした。病院では、精神科に移っていた。親子カウンセリングと言うのを受けていて、親子別々の先生で、それぞれにカウンセリングを受けていた。私は、学校では好きな教科は何?とか、将来何になりたい?とか聞かれていた。でも本当はそういう簡単な質問をしながら、肝心な話をしていたんだと思う。部屋では、ドアが開かないようにバリケードを張って、誰も入って来れないようにした。

部活はバトン部だった。でも、学校には行けていない。合宿にもこの体調のため出れていない。なんとか、一部だけ舞台には立てていたけど、仲間には迷惑かけていた。それでも2年生では大会に出た。金賞を取った。関東大会にも出た。青春してるって感じだった。

でもその2年生の時、問題が一番ひどかった。学校で友達と、家に帰らないと言って先生を困らせ、16歳にして、学校の近くの大きな公園に夜中いて、警察に補導された。友達は平然として、おまわりさんにジュースを買ってもらったりしていたが、私は親が迎えに来る恐怖で固まっていた。車の中で、両親は何も言わなかった。次の日、両親は学校へ謝罪に行った。よく辞めさせられなかったと思う。

17歳の夏、通っていた通院先で、入院の話が出た。私は子供の病院ならいいと言った。そうしたら、都内の小児病院の精神病院を紹介された。3歳から18歳までの子供たちが、大きな敷地内に病棟ごとに分かれて入院している。私は最初、女子思春期病棟・閉鎖病棟に入院した。主治医は28歳男性だった。親、特に母親は、子供がどんなに手がかかっても、自分の手から離れ、鍵のかかる扉をとかけられた時には、声を上げて泣いた。「ゆこたん、元気でいるんだよ」と母。その病院の中には、養護学校も併設されていた。小学校と中学校だけだから、高校生の私には関係ないけど。それに大学受験を考えていた私には、養護学校なんて親が許さなかった。病院にいて、どんな環境の中でも、勉強、勉強だった。私はストレスがたまって行き、周りの子たちを真似るように、リストカットを覚え、病院から学校に行くようになってからは、帰りがけにカミソリを買って帰るようになった。暴力もひどくなった。この時代の精神病薬は、今とは違う。母がよく言う。目つきが違っていたと。子供に飲ませてはいけないはずの薬なのに。物に当たる。人に当たる。自分にも当たる。母は、私の送り迎えが始まったので、ペーパードライバーから、車を乗りこなせるようになり、毎回私に会った後は、きたろうのシンセサイザーの曲を聴いて泣きながら運転していたそうだ。奇しくも、母が今の私の年令くらいだったようだ。40くらいかな。病院には、カミソリを買ってしまうので、母が朝迎えに来て、学校まで電車で送って行って、送り届け、帰りは定時に迎えに行って、また病院に送り届ける。この日々が、半年くらい続いた。母は、4時に起きてお弁当を作り、自転車を走らせ、駅に向かう。その頃、弟の具合も悪くなっていた。今思えば、私に愛情が行ってしまって、父の過干渉がストレスになっていたんだろう。過敏性腸症候群になっていた。弟も学校に行けなくなっていた。でも母は、私の方しか見れる状態ではなかった。私を学校へ送って行った後、行けなくなってしまった弟の中学校に自転車を走らせ、校門の所でなんでこうなったのか、と涙したと言っていた。

勉強はさっぱり分からなかった。定期テストも、先生が答えを教えてくれた。それさえ覚えられなかった。私は国立コースのクラスにいた。だから周りは医大とかを目指している。センター試験を受けるような人たちだ。東大にも何名も受かる。私は、同じ外部受験組でも、上に上がる能力がないから、仕方なく外部の短大を受けるのだ。ランクを下げて。受験指導をしている父には、顔に泥を塗ったことになる。弱気になっていた私は、専門学校でいいとか言っていたけど、親が絶対許さず、どこでもいいから、大学に入りなさい、留年してもいいから、と言って受けさせた。数打ちゃ当たるで、6校くらい受けた。受験料だけで100万超える。まず1校本命ではない所が受かってしまったので、入学金を納めた。バブルの時代。かなりの金額のはず。でもその後に奇跡的に第2希望の所が受かっていて、もうそこに決定。幼児教育科幼児教育専攻。高校からも、通知表に「卒業」というを押してもらい、散々お世話になった高校とも制服ともお別れした。

高校卒業と同時に、一旦、病院も退院した。

思えば、受験も病院からだった。18歳になっていた。やっと家に帰れる。


🌠 短大時代

家からバス2本乗り継いで行く所にある大学の付属の短大の当時は女子大だったけど、今は共学校になっている幼児教育科幼児教育専攻に入学した。これで全てがうまくいくかと思った。夢の短大生活が始まるかと思っていた。今までしたこともなかった化粧水、乳液からそろえ始め、お化粧品もデパートで買った。スーツも買いそろえた。その短大は、第2希望とはいえ、高校に比べ、ランクがずっと下だった。偶然、短大の同じクラスに、小学校の同じ学年の子がいた。非常に気まずかった。ほとんどというか、全く話さなかった。サークルの勧誘もあった。でも私はその頃、入院していた小児病院に通院すると同時に、芸能界に憧れを抱き始めた。年令18歳。ホリプロスカウトキャラバンを受けた。歌の審査、面接、書類審査などあったように思う。何万人と言う応募の中から、関東地区代表の第3次予選まで行ったけど、そこまでで終わった。だけど特別枠という形で、モデルとしてレッスンを受けないかと言われた。病院の先生に相談すると、将来はモデルさんとして生きていきなさい、と言われたので、芸能界に入ることに決めた。でも、現実は、レッスン費ばかりかかって、お仕事は余り入らなかった。当時はやっていた、おばたりあんのエキストラ、JR東日本のCMの通行人役、1本出演すると出演費は大きいけど、なかなかヒットしない。24歳になる頃には、自ら雑誌に仕事を応募して探さないとなかった。

それに、短大に入ると、私は、急に、発達障害の症状が顕著に出出した。今思うと、なんだけど。先生の説明を聞きながら、黒板の文字をノートに写せなくなった。とにかく出席しているのに、ノートが取れない。1年生のうちは、友達がノートを無料でコピーしてくれていた。私は、コピー代がかかると言うことまで、頭が回らなかった。毎日全教科、コピーしてくれていた。158cmで体重42kgだった私は、掲示板に学生番号と、名前が貼り出され、保健室に来るようにと書いてあった。低体重で、拒食症気味だと言われた。そう言われたのが、快感だった。気を良くした私は、リストカットが再発し、また、精神不安定になって行った。クラスでも浮いていた。薬を飲んでいるため、眠くてたまらない。そして私は2年生のとき、単位を落として、留年したため、休学した。みんなと1学年ずれることになる。そして、19歳の時、また、小児病院に入院した。この頃、ピアノのレッスン中、意識を失って倒れるというてんかん発作のような物が2回もあり、救急車で運ばれている。入院中は、今度は、ずっと個室のまま、外に出してもらえなかった。この頃から、失禁するようになった。我慢する力が弱い。当時は洗濯は、病院側。子供なので、入院費もかからなかった。結局、20歳の自分の誕生日まで、入院出来る限り、入院していた。その後は、思春期デイケアに通った。主治医のカウンセリングの他に、心理療法を受けた。学校へ復活すると、私の居場所はなかった。出席番号は一番最後にされていた。何もやる気がしなかった。ただ、何となく短大に通っていた。一応、就職活動なる物をやってみたけれど、一般企業も、幼稚園も、片っ端から落ちた。

仕方が無いから、やることがないから、短大は卒業し、付属の専攻科幼児教育専攻に入ることにした。


🌠幼稚園で、専攻科に進んで

留年して、幼児教育科を終えて、就職活動はしたけれど、一般就職はことごとく落とされ、幼稚園も、風の噂を聞いたのか、私の名前を出すと断られる。仕方がないので、流れで専攻科へ進んだ。生徒は10名。

専攻科は、午前中は、付属の幼稚園で担任補助。実習は、何回もしているので、なんとかなりそう。給料ももらえる。3歳児組の人と、4歳児組の人と分かれたが、私は3歳児になった。入学式の写真にも写ってしまった。おかあさんといっしょのショーのテレビにも映ってしまった。しかし、どの画像も表情が暗い。心から園児と楽しんでいない。園児の名前もどうしても覚えられない。頭の中は、担任の先生に提出する記録のノートのことでいっぱい。常にメモを持って、何時何分、何が起こったとメモをしていた。行動より先にメモだった。記録をしなくてもいいと言うならば、私はもっと園児と打ち解けたはず。「ゆこたん先生、もっと子供たちに話しかけてあげて下さい」いつも言われる言葉。紙芝居も、感情がこもっていないと言われる。何をするにも、導入がないと言われる。「固定遊具は、見守りではなくて、一緒に遊んであげて下さい。きっと、喜びますよ」分かっているけど、出来ない。

そのうちついに、園長先生から、「ゆこたん先生、勤務の回数、減らしましょうか」と告げられる。苦情があったのかもしれない。何をやるにも、時間がかかる。園児たちは、勝手に暴れまくる。外に飛び出す。何の考えもなさ過ぎた。

午後は授業だ。私には友達が居ない。でも誰かが「昨日、救急車で運ばれて」としゃべっていると、「え!私も乗ったことあるよ!何で乗ったの?どこの病院行ったの?入院しなかったんだね?私はしたよ」とか、空気読めないやつだった。

この頃、少ししか食べないで、コーラック1箱飲んだりしていた。1回にだ。病院の子は、本気でお腹にギョウ虫を飼うのが憧れだったみたいだけど。

卒論は、小さい頃、自閉症の子とよく遊んでいて、小学校も学年が違うのに、よく私の教室に来てしまう子が居たその子のことを書いた「自閉症について」にした。でもまさか、自分も自閉傾向があるとは思っても居なかった。その時は。


🌠 学生生活を終えて、入院 〜精神病院 S病院〜

もう20歳を過ぎているので、今までの小児病院には入院出来ない。S病院を紹介された。大人の精神病院はすごい。半閉鎖病棟だったけど、柱に椅子におばあさんを座らせて、紐で朝から晩まで縛り付けておく。おばあさんは、独り言を大声で叫んでいて、近寄るとつかみかかってくる。みんなそれを楽しんでいる。私はいつも、ぼんぼんみたいな人が主治医で、ひどい状態の時は、保護室にずっと入れられて、保護室がいっぱいになると、2人一緒に入れられて、うんちまみれにされ、でも声が届かないし、滅多に来てくれないし、来てくれた所で、要望なんて聞いてくれない。動物扱い。お風呂も入れない。入れても、1人5分で「交代!」とコールがかかる。お正月の保護室は1人だったけど、廊下の窓の隙間から、水とか食事とか配給される。少しでも逆らったらもらえない。助手さんが、窓から「下がって」と言う。最も離れてから、水を窓枠に置き、逃げるように去る。主治医は1日に7回はお尻に注射してた。北斗七星だと思ってた。真っ青になったお尻。ここには3年間入院していたけど、本当に悪夢だったのは、閉鎖病棟の方で、私はおむつをしていたので、赤ちゃんみたいに寝かされ、3人部屋なのに、他の2人は病棟自体がトイレットパーパー使用禁止で、昔ながらのちりちりの四角いぼろいちり紙で鍵がなくて、下が空いているトイレで用を足していたらしい。でも私は、完全におむつで、時間になると、ばっちゃんが、おむつの人を交換に回る。私はずっと寝かされていて、食べさせてもらうだけ。でも、部屋の住民が「臭い」とか「こいつ、やだ」とか言う。閉鎖病棟の保護室を覗いてみたら、比較にならない程、状態の悪い患者さんが居た。ホール近くのおばあさんたちも、異様にキーキー言っている。出たいよー、出たいよー。主治医に頼み込んだ。こっちは辛すぎると。じゃあ、○日まで待ちなさい、と言われて戻してくれた。

ゆこたん's Ownd

病気や障害は辛いけど、毎日、元気に、明るく、楽しく、前向きに生きていこう!!

2コメント

  • 1000 / 1000

  • ゆこたん

    2016.02.13 04:38

    @s-tuiteruお返事遅くなってしまってごめんなさい。 どんな本か、タイトルと、著者名を教えて下さい。 検索してみます。
  • s-tuiteru

    2016.01.24 11:50

    私は主婦です。ゆこたんにプレゼントしたい本があります。