ゆこたんの生い立ち②(多摩総合精神保健福祉センターから入所施設に入所してまで)

🌠 多摩総合精神保健福祉センター デイケア部門 22歳頃と33歳頃の2回

とても心が不安定な状態で参加しましたが、受け入れ可能でした。しかし、すぐに問題児の肩書きが付くんですけど。例えば

・バスハイクに行くと「まだ帰りたくない〜!」と集合時間に泣き叫ぶ。

・体育の時間に、体育館に居ないで、芝生の水まきをして、自分もずぶぬれになる。

・あちこちで、おもらしばかりしている。スタッフが後始末をして回る。

などやっているうちに、母の呼び出し回数も多くなり、みんなは週4回出席なのに、私だけ週2回しか来させてもらえず、その内、「欠席して下さい」と言われるまでになった。

出席するのに、条件をつけられた。

「朝の会に出席して、返事をすること」「帰りも同様」「トイレを失敗しないこと」など。

とにかく私の課題は、帰りの会にどうしても出られないことで、せかされるとますますダメなのに「出られなかったらお母さん呼んじゃうからね!早く!あーあ。終わっちゃった。じゃあ、約束だから」と、担当に言われ、気付いた時には、外に向かってダッシュしていた。

そこは、京王線のとある駅の手前。塀があって、私は泣きながら乗り越え、線路に飛び込んだ。「パオーン!!」というものすごい音がしたのを思い出します。

同時に、誰かが上に乗っかって来たのも思い出します。

「只今、人身事故がありました。15分程、列車が遅れます」というアナウンスが流れた。

私は、引きずられ、多分、電車に乗せられ、駅まで行き、センターの車で迎えに来てもらい、母も来て、その日は家に帰った。

次の日、デイケアの責任者と、母と私で、京王電鉄へ謝りに行った。普通は、ものすごいお金を取られるらしいけど、精神の障害を持っていると言うことで「注意して下さい」と言うことになった。

カラオケでは、いつも高得点を取り、一目を浴び、音楽の先生からも目をつけられ、先生のピアノのコンクールにも特別招待されたりした。

でも、結局合わなかったのかなと思う。

私の障害特性に理解が無かったと言うか。


🌠 ネットで出会った人

デイケアでも、相思相愛になった男の子は居る。

でも、その人も精神の病気だし、スタッフから「お付き合いをしたら共倒れをするよ」と言って、反対されていた。

2人で、「どこからが友達で、どこからが恋愛なのかね」なんて話を真剣にしていた。

そういう純粋な仲だった。

でも、ネットで出会った人は違った。

そもそも、私は、ネット自体初心者だった。

ある掲示板で知り合ったその人と、最初はメールで普通に話していたのだけれど、「家どこらへん?」と聞かれて、真面目に答えると、「近いじゃん。今から行くよ。早くゆこたんに会いたいよ」と言われて、びっくりして、慌てて着替えて、支度して待っていると、本当に車で家の前に来たのです。

顔は、写メで見ていたのですぐ分かりました。

車に乗り込むなり、ものすごく狂ったようなディープキスをされ、初めてだったので、気持ち悪くて、逃げようとしたんだけど、「さあ、行こう」としてしまった。

放心状態で居ると、「カラオケやろう」と言っている。

でも、着いた場所は、明らかにカラオケBOXじゃない。

ホテルだ。初めての私でも分かる。

「ここ、違うよね?」と言うと、「ここにもカラオケの機械あるよ」と強引に駐車場の中に入って行った。

どうやって、自分が部屋の中に入って行ったのか覚えていない。

気付いたら、目の前に始めて見た男性の性器があり、それをくわえさせられた上、胸をもまれたり、すごく怖い思いをしたのに、私は最終的に犯されたのでした。。。

こんなことするんだって知って、「大人になりたくない」って思いました。

初体験でした。

後で知ったのは、その男性は、薬物中毒で、何度も刑務所を出たり入ったりしていると言うこと。

私は、数年後に、婦人科検診で、パピローマウイルスと言われた。精神科の主治医に話したら「不純異性交遊ですよ」と言われた。


🌠 飛び降り自殺

ずっと、世田谷区の児童精神科に入院して居た時期があった。

20代の後半かな。

でも、ここでも理解が得られなかった。

今では、ここの病院は「自閉症・発達障害の方はお断りします」とはっきり書いてある。

たばこが原因で炎が上がった時があった。

その時も、たばこなんて私は吸わないのに、放火を真っ先に主治医に疑われた。

現場に居たのが私だからだって。他にも居た人居るのに。

犯人は、現場に戻って来るもんだとかなんとか言って、犯罪心理学のテストをされた。

おもらしや、おねしょをした時も、看護師さんや主治医の先生から「臭いんだよ!」と殴られた。

子供たちの病棟で、小さな子供同士、小さなお風呂に5〜6人一緒に入っていた。今思うと、危険だと思う。

全て自分でやらなければならなかった。

隣りのベッドの8歳の女の子は、寂しくて泣きすぎて、吐いて放っておかれた。

そんな色んな怒りを感じて、他にも色んなことに疲れて、先に希望を感じなくて、外泊中、自宅の2階の屋根の上から飛び降りた。

生きていた。

思わず「痛い・・・痛い・・・」と呻いていると、父と母が、「静かにしなさい!自分でやったんでしょ!恥ずかしいから黙って!自分で家に入って来て!!」と言うので、とても動けそうになかった私は「無理だよ・・・」と言うと、母が父に「どうする?救急車呼ぶ?」と聞くと「そんな恥ずかしいことするな!」と一喝。

母がちょっと私の体に触れると「痛い!」と大声を出してしまったので、母は「ずっとそうしてなさい!」と何時間も、寒空の下、放置されていた。

心が寒いって本当だなって思った時だった。

翌朝、世田谷区の病院の精神科ではなく、整形外科へ自宅の車で連れて行ってもらったのだけど、結果は、腰椎圧迫骨折、両足骨折、右手骨折、歯が数本欠けていた。

動けないはずだ。

ギブスを作るのに、母と整形の先生で、ぐーっと引き締めるのが痛くて、すぐに整形に入院になったけど、整形では対応出来ないと精神科の個室にお忍び入院になった。

この時ばかりは、精神科の看護師さんも優しかった。

主治医も交代した。

いくらか良くなってから、今、通っている精神科の病院へ来た。

表向きは、世田谷区の病院からの紹介となっているけれど、本当は私が整形もある病院と言うことで調べた結果が、幸いにして良かった。


🌠 初めの頃の今の病院での私

初めての頃は、今でこそあり得ない「開放病棟」に入院したのだが、やはり、とても見切れないとすぐに閉鎖病棟へ移される。

平成15年のことでした。

この時、元彼と出会ったのです。

彼は、看護補助で、移った閉鎖病棟の方に居ました。

失禁の後始末、おむつ替え、お風呂の介助、散歩同行、暴れている人の抑え役、色んなことをやっていた。

入院するとまず、担当ナースとお約束事を決める。幼稚園児並みのことを。「ベッドより高い所には登りません」「食べ物以外口に入れません」「2語分言えるようにします」「暴れません」など。約束事を、夕方振り返って、ナースに出来た項目にはシールを貼ってもらう。

激しく暴れて、病棟内のスタッフでは抑えきれない時、ナースや医者は、胸のポケットに緊急時にすぐに応援を呼べるようにボタンを押せるものがあった。

そのボタンを押すと、全館放送で、どの時間帯だろうが構わず、エリーゼのためにの音楽とともに「◎館●階ペック」という男性の声で放送がかかる。

私は、ペックの常連だった。

ペックがかかると、医者も看護師も、各病棟から集まり、私をベッドに押さえつけ、バルーンを入れ、点滴をしていた私に、隔離・拘束の指示を出し、注射の指示を出す先生も居た。

病棟OTで、ビーズとかやっていると、片っ端から引っくり返して回った。キラキラしたのが奇麗だったから。

車椅子のおばあさんが、時間外にお風呂に介助で入っているのを発見した時、怒りまくって、車椅子ごと押し倒した。時間外に入っているのが理解出来なかった。

親とも良く喧嘩して、病院の親電話を壊して、50万円弁償させられたらしい。

うんちの塗りたくりもよくやった。布団もうんちまみれ、自分もうんちまみれ、部屋中うんちまみれ、あの時はどういう心境だったんだろう。少なくとも、うんちが臭いとか、汚いとか言う感覚はなかったに違いない。

保護室には、給湯器があって、お茶が自由に飲めたので、お茶をがぶがぶ飲んでは、嘔吐すると言うのもやっていた。人間ポンプごっこみたいな。

保護室には、水道もあるので、暑い時、洗面所にすっぽりはまって水を張り、折り紙で魚を作って、遊んでいても、若さ故に許してくれたのか、時代だったのか、今では考えられない。

ご飯は、どんぶりにおかずを乗せてもらって、一口サイズすくって食べていた。見守りをしていないと、異食してしまう。例えば、プリンが出て、プラスチックのスプーンがついてくると、プラスチックのスプーンごと食べてしまって、危険な目にあったことがあった。口の血だらけになり、発見されたから、飲み込む前に見つかったのだけど、見守りが居なかったら、危なかった。

保護室から出るときは、見守りが付くのだけど、2〜3時間の開放時間に、ホールで碁石に夢中になっていたかと思うと、夢中になりすぎた余り、碁石を口の中に入れてしまって、ナースルームで見ていた看護師さんが、私を取り押さえ、頑として口を私に開口鏡で無理矢理口を開け、碁石をかき出された。一応、飲み込んでいないか、X線撮影もした。

33歳の時、臨床心理士の先生が交代になり、その先生が、私は人格障害じゃない、なんかが違う、テストをやってみましょうと、知能テストをやってみた所、発達障害の症状が明らかだったので、治療方針を極端に変えた。

そこから、今の主治医の先生に交代になる。

外来では、週に2回通って、点滴を受け、先生による2時間近くも受けていた頃もあった。

でも、外来で、待合室の椅子の下にもぐったり、デイケア3窓から身を乗り出して、簀巻きにされて運ばれたり、私を入院させるには前もって病棟側で準備必要とされ、何となく半年経つと入院が必要になって来る状況で、いつも救急病棟の保護室に入院していた。

強い心で、ちゃんと入院しようと思っても、入院すると退行してしまい、叫びすぎて声がかれたり、拘束から逃れることしか考えられなくなり、みんなが敵に思え、治療に専念出来ず、異常行動をとってしまう。多分、保護室と言う周りの環境も影響していると思う。


🌠 彼との出会い、恋愛

彼と言うか、元彼と言う立場になっているのですが。ここでは、彼としておきます。

彼とは、平成15年、今通っている病院に入院中、私は患者、彼は看護補助と言う立場で出会った。

初めての出会いはすぐで、ビビット来る物があり、会話も弾んだ。

最初の病棟を退院する時、私が、看護師さんや、先生や、看護補助さんは彼を代表して、お手紙を書いた。しかし、彼だけにはダメ元でメルアドも書いておいた。

帰ってみると、彼から「退院おめでとう」と、パソコンにメールが入っていた。

その頃、歌や演劇のオーディションを受けて、八王子まで毎週レッスンを受けて、アクターズスクールと言う所に通っていた。「怒り」や「喜び」を体全体で表現してみたり、「悲しみ」を作曲して歌ってみたり、苦手な人は、絵にしてみたり、楽しいんだけれど、私はみんなの輪の中にうまくとけ込めず、ヘルパーさんが必要でした。彼と出会ってからは、アクターズスクールに一緒に行くようになった。そこから仲が深まった。それまでは、移動支援の人に連れて行ってもらっていたのだ。

あちこちに、出掛けるようになり、お泊まりもするようになり、愛が深まるに連れて、本格的にお付き合いをしようと、お互いの挨拶に行った。「真剣にお付き合いをしています」と。でも私は急展開過ぎるようなきもしていた。付き合って3ヶ月で、体を求められた。私はレイプのことも話してあった。だからこそ、そういうことは、慎重になってもらいたかった。

両親にも話が行くと、私たちの行動も大胆になり、病院内でも噂が立ってしまい、彼は私が患者である病院では働けなくなってしまった。看護部長から、自主退職を促されたようだ。

彼は、性に欲求が強く、普段は優しいのだけれど、区切りをつけては、私をホテルに誘うようになった。元旦だから、給料出たから、競馬が当たったから、暑いから、寒いから、理由はきりがない。

彼も、私と出会っても、時々いかがわしいお店、特にロリ系のお店に行って、捕まったこともあり、それでも私と体の関係を求めて来て、強引で、やっぱり自分だけ気持ちよくなるのはずるいとか、生でやりたいと勝手にゴムを外してしまったり、可愛い声出して、俺が逝けないよ、とか無理な注文ばかりで拷問でした。

彼は、何万もする洋服や、バッグ、財布、指輪、何でもお揃いで買ってくれた。

私は申し訳ないから、お返しに、7千円くらいの物を渡すのだけれど「姉ちゃん、喜びそう」と言われてしまう。そこにいつも、ふつふつとしたものを感じていた。

最初こそそんなものの、付き合って行くうちに、いやいやホテルに入っているのに「少しは払わないの?」とかつぶやかれました。

結婚も考えた。でも、その時、彼に職はなく、資格ばかり追い求めていては、毎年落ちている状態で、真面目に勉強もせず、将来設計もなく、運が良ければ受かると考えている。いつも、何とかなるでしょうと言っていて、しまいには、三鷹市(私の家とまで言った)に住みたいな、とか、私の障害年金を生活費の当てにしたりし出して、両親は泣きながらこの時ばかりは大激怒した。

それから、両親は、極端に、彼を避けるようになった。

私も、結婚はしない、子供は作らないと誓ったのに、彼は私の体を求めて来るのには変わらないのだった。

段々、上辺だけの付き合いになって来た。会うことにときめきを覚えなくなって来た。お化粧もしなくなったし、前日に、洋服の準備もしなくなった。どうでも良くなった。ただ、時間通りに間に合わせないと、怒りの頂点に達するので、それだけは気をつけた。

本格的に別れようと、何度も思った。そのつもりだった。

現在は、お付き合いしていないことは確か。彼に好きな人が出来れば、どうぞご自由にと言ってある。お互いに好きな道を歩みましょうとも話し合ってある。でも、会うことはもうないけれど、ラインは時々送られて来る。電話は絶対にかけないけど。誕生日も祝わないけど。たまに「今日は暑いね」とか「今日は仕事休み」とか、他愛ない言葉を送信している。どちらからともなく。そこに元彼だから、縁を切らなければいけないと束縛も無い気がする。もう大人だし。彼に、女性が出来れば別だけれど。


🌠 措置入院

精神的に不安定になった15歳の頃から、自分の部屋や、家の中に私は苛立をぶつけていた。

包丁、はさみ、刃物類、薬は、家族が徹底的に隠していた。それでも、OD(大量服薬)や、リストカットで、病院に運ばれることがあった。

大声で時を選ばず叫び、勝手に110番して逆探知され、警察が家に来ることは何度もあった。

34歳の時、家で飼っていた鳥を父がいじめたので、怒って家出した。靴も履かずに、裸足で真冬夜中の町の中、上着も着ないで、どこを歩いているかも分からず、ひたすら歩き続けたら、警察署に補導された。両親が迎えに来たが「絶対に帰らない」と頑に言っていたら、警察官も諦めて、その日は、警察署の保護室に泊まることになった。警察署の保護室は、檻みたいな所で、血だらけの毛布を1枚だけ渡され、一度も洗っていないであろう感じのもので、でも寒いからそれしかなくて、壁側を向いて寝ようとすると、いつ自殺するか分からないから廊下側を向いて寝ろと言われて、1時間おきに巡回が来た。トイレも中まで監視された。私は未成年だと思われていたようで、少年課のお姉さんが対応していた。尿検査もされた。私はただの家出少女。でも、警察署には手錠をかけた人が、次々と入って来る。翌日、病院の主治医の先生に電話をかけてもらったら「34歳なんですか?」と驚いていた。

措置入院は、39歳頃かな?

彼とデートからの帰り道、家まで送ってくれて、後ろに車が来てて、「隣りの親父がストーカーしてる!!」と完全に妄想にやられ、一晩中騒ぎ、朝、包丁を振り回し、お風呂場に立てこもって、「殺してやる!」「死ね!」と狂い、お風呂場から出て来ると、警察に電話して、「奴を殺せ!ストーカーの罪で逮捕しろ!!」と電話する。すぐに、パトカー、消防車、救急車が集まる。警察官は、私の対応、両親の対応の二手に分かれる。私の対応の人は、顔なじみらしい。「辛いでしょ。病院行こうか」と言われて、やっとのことで行くけれど、乗った車は覆面パトカーだった。警察官に挟まれ、載った瞬間にサイレンが鳴った。しかも私が発達障害と聞いて、何も分からないと思ったのか、私の悪口をぼろくそ言っていた。「こいつ、くせーよ。糞してんじゃねーの?」とか。通院先の病院に着くと、主治医の先生は、私の顔を一目見て「措置、行っちゃって下さい」と言った。上野とか回ったらしい。私は、措置入院の判定を受けた。よく分からないけど、質問に答えられなかった。床を転げ回っていた。判定結果、措置入院決定。杉並区の病院へ救急車で運ばれる。

私はずっと叫んでいたので、保護室の一番奥の部屋に入れられた。おむつを頑丈に当てられ、抑制帯も頑丈にされ、身動きも全く取れなかった。「何かあったらナースコールで」と言われたけど、ナースコールは頭上にあり、届かないし、声も枯れていて出ないので、全くの無抵抗。薬は、一日全体で5錠くらいになっていた。いきなりの減量についていけなく、禁断症状が出たのか、1日目の夜、吐いてしまったが、声が出なくて訴えられなかった。動きも人形のようになってしまった。抑制が取れると、「何でおむつしてるの?」と聞かれた。主治医に「みんなと一緒の食堂でご飯が食べれたら、退院も考えてあげる」と言われた。最初はフリーズしてしまってダメだったけど、頑張って食べられるようになった。食堂に行くと「女子大生?」と聞かれ、沢山の人が寄って来た。男性看護師さんも、私と戯れてからかって遊ぶのが面白かったらしい。でもどうしても、元の病院に戻りたくて、最短の措置入院の2週間で済ませ、退院して、すぐに元の病院に転院して、入院し直した。


🌠 発達障害と診断されて

30代になるまで、私の診断名は「統合失調症」だったり、「境界性人格障害」だったりした。

でもそれまでずっとカウンセリングしていてくれた心理の先生が、長い間お休みに入ると言うことで、代わりに入った先生が運命の出会いとなった。

心理面接を重ねて行くうちに「この人は、人格障害なんかじゃない。もっと、大変な障害みたいなものを持っている。早く検査をしなくちゃ」と思ったそうだ。

知能検査や、発達障害の検査をしたら、私は、言語性IQと動作性IQの大きく開いていて、典型的な発達障害と分かった。

私への対応を変えることになった。このまま注意をしても、何も本人には入っていないことが分かった。言い方の問題。ゼロから立て直そうと言うことになった。

我が家では、もやもやしていたものが「障害から来るもの」「生まれ付きのもの」「子育てが悪い訳ではない」と分かって、みんなが喜んだ。

今まで、バカにされ、責め続けられ、何で分からないのか、何で出来ないのか、と言われ続けて来た敗北感、屈辱感、虚しさ、などからやっと開放された気がした。

しかし、障害名が付いても、そこからが戦いだった。


🌠 入所施設に入所して

町田市の重度身体障害者施設に入所した。

きっかけは、親から離れたかったからだ。

東京都の入所施設、100件近く、自分で全部電話して、空きがないか聞いて回った。その中で唯一、「見学に来てみますか?」と言われた所が、町田市の施設だった。

全員が、身体障害者手帳を持っていて、90%近くの人が車椅子。精神障害のみの人は、私だけだった。

区分が高かったから入れたようなもんだった。

精神障害のみの受け入れは、初の試みらしく、特に自閉症、発達障害は、全く事例がなく、戸惑っているようだった。

それでも私の「入所したい」という強い意志があったため、短期入所からやってみようと、始めて見たら、本入所まで2ヶ月近くもかかってしまった。

本入所が決まったのは、平成25年5月のことだが、その頃には、私は車椅子を購入するようになっていた。施設に始めて来た時には、歩いて来たのに。そして、同時に、ヘッドギアも欠かせなくなっていた。自室の床には、転倒防止に、クッション素材のマットを敷くように言われた。

手のかかる人として有名になった。

何をしても、浮いた存在になってしまう。やけになっていた気もする。

利用者さんの大半は、両親がいなかったり、施設まで面会に来れなかったり、外泊は難しい人がほとんどだった。その中、私は、しょっちゅう、外泊していた。両親にわがままばかり言っていた。その頃の両親は、私に対する愛情の掛け方が下手で、過度に心配する母と、お金のことばかり頭にある父との関係に、怒鳴り合いが怒り、私はストレスフルだったのだ。

私も沢山問題を起こして来た。そこに、夜中の脱走・迷子事件。堪忍袋の緒が切れ、退所処分。受給者証が平成28年2月29日、施設を退所した。

甘えも出てしまったのかもしれない。実際に自制が利いてなかったと思う。

退所する日、私は車椅子に乗っていなかった。

その日以来、ヘッドギアも被っていないし、車椅子にも乗ることはなくなった。

しかし、病名が1つ増えた。

「転換性障害」


ゆこたん's Ownd

病気や障害は辛いけど、毎日、元気に、明るく、楽しく、前向きに生きていこう!!

0コメント

  • 1000 / 1000